時計は午後十一時を回った。天使捕縛の連絡はまだ受けていない。
クラングは一息入れようと椅子に座ったまま背を伸ばした。
立ち上がって、窓辺に歩み寄る。空に輝く星々よりもきらびやかな街の明かりが足元に広がっている。
(あれから二時間、か。ジィルバはまだ使えないな)
――天使の捜索は?
そう聞いてきた青年の声が頭を過ぎる。
(……まだ動くつもりだったのか。馬鹿が)
己の身を省みない。危険な青年だ。
ジィルバの身体能力は確かに抜きんでたものがある。不可視の天使の動きを捉え、その攻撃をよけ、さらに反撃までする。
だが、長時間は無理だ。体への反動は大きい。
(ジィルバは初手から限界を超えた動きをしているだけだ)
超人が限界を超えてやっと天使と対等。
自分の考えに、クラングは思わず苦笑を浮かべた。特別仕様の強化ガラスに触れる。街の光を撫でるように。
「超人などと言う呼び名は無粋か。……銀闇の使者」
* * *
「……肩と、腰が痛いな。あと足も」
ベッドの上で、ジィルバはリヒトにうろんな視線を向けた。
「引きずっただろう?」
リヒトが表情を引きつらせる。どうやら図星らしい。
「……だってジィルバさん僕より重いのに」
「救済の天使は使えんな」
「そ、そんな言い方……っ」
「助かった。ありがとう」
空色の瞳をぱちくりさせる。
「え……?」
ジィルバはくすくすと笑った。はじめて見る裏のない笑みだった。
「二度は言わないからな」
リヒトはぐっと息を呑んだ。
「っずるい!」
「……熱は引いたな」
自分の額に手を当て、ジィルバは上体を起こした。リヒトが慌ててとめようとする。
「ちょっ、まだ無理ですよ」
「今、何時だ?」
問われて、ついリヒトはぱっと時計のほうを振り返った。
「十一時二十三分です」
「もう動ける」
「だめです!」
「……」
ジィルバは黙ってリヒトを見つめた。
「……なんですか」
銀色の瞳は絵画の中の眼差しに似ていた。動かないのに、動いているもの以上の生命力で見る者を惹きつける。
そして短い一言。氷の破片が耳に刺さるようだった。
「どけ」
「はい」
固まった表情でリヒトは体を横にずらした。
ジィルバがすたすたとクローゼットへ向かう。
「って、あ、ちょっと、ジィルバさん! なんですか、今の!」
「何って……」
ジィルバは記憶の糸でも捜すかのように頭をめぐらせた。やがてリヒトの方を向いて口を開く。
「相手が言うことを聞かなかったらこうしろと上官に言われた」
「はい?」
リヒトが片眉を寄せる。しわだらけのシャツを脱ぎながら、ジィルバは首を傾げた。
「天使には効かないと言われたが、そうでもなかったな」
(……ジィルバさんの上司は変な人だ)
だが、よく分かっている。
あの瞳に見つめられて、動ける人間は少ないだろう。
(でも、それって女の人相手にそうしろってことなんだと思うんだけど……)
リヒトはため息をついて、きびきびと着替える男を見つめた。
その無感情な横顔に、公道での戦いを思い出す。すべてを見たわけではないが、ジィルバは確かに怒りをあらわにしていた。
「……彼を見つけたら、殺すんですか」
小さな問いかけに、ジィルバは振り返って手を止めた。
「捕縛を拒むなら、処分してもいいことになっている」
テーブルの上に置かれたコートと制服の上着、そして銃のホルダーをつけたベルト。それらを一瞥する。
「……たった一人の断罪の天使が人を殺すのは、ただの殺戮とでしか終わらない」
そのとおりだろう。大天使さえも討った軍の支配する世界で、一天使の足掻きは無駄なものだ。そして、その無駄な足掻きで人が死に、当の天使も死ぬ。
死は苦手だ。リヒトは胸元を握り締めた。
「それでも……、捕縛では済まされないんですか?」
「捕縛できないから殺すんだ」
「……殺さなくても、動けなくすればそれで……」
ジィルバは腰に手を当てて、少年天使を睨んだ。
「手加減しろと言っているのか。人間が天使に? それは自殺しろと言っているのと同じだ」
突き放した声。
顔を上げて、リヒトは必死に首を振った。
「違います。僕は、あなたにも誰にも何も、殺して欲しくないんです!」
言い終えて、リヒトはジィルバの表情が歪むのを見た。
「では、なぜ、断罪の天使を外に出した!? あれが外に出なければ、誰も死なない。誰も死なないんだ!」
責められて、リヒトは唇を震わせた。
「天使は……自由戦争で敗れたときに、天に帰るべきだったんだ!」
叫び終わって、ジィルバは肩を上下させた。
リヒトが涙を溜めて床に座り込む。地上で生を受けた自分は、空の上の世界を知らない。
「……受肉した天使は……天には帰れません」
掠れた声で告げられて、ジィルバは目を伏せた。じわりと、握り締めた手が汗ばむのを感じる。
元来、天使はひとつのエネルギー体である。霊体とでもいうのか、そのままでは人間界では何もできないのである。そのため天使は地上に降りる際に肉体を得るのだ。
「……そうだ、知っている。……人間と同じ肉をまとった時点で、天使は天使の理想を失ったんだ……」
目頭が熱い。
「……神の意志を遂行していると信じながら、聞こえなくなった神の声を必死に自分たちで紡いだ……」
愚かな天使。
その愚かさに多くの人命が奪われた。
リヒトの空の瞳から涙がこぼれる。彼の瞬きに合わせて。
それを見つめならが、ジィルバはゆっくりと息を吐いた。天使の涙など、見たのは何年ぶりだろうか。
「……リヒト……軍へ帰れ。誰の死も見たくないなら、ここはだめだ」
悪魔の存在する世界だ。
うなだれたジィルバを見上げて、リヒトは鼻をすすった。
彼は怒りと悲しみに疲れている。世界を壊した天使を憎みながらも、天使の嘆きを解しているのだ。
「……軍にいれば何も見えないんですか。軍の行いが。……軍の内部では見えないんですか」
少年の声にジィルバは目を見開いた。
――秘密を隠すなら薔薇の下。華やかさに目を奪われて、誰も土の下には気づかない。
「UR」はクラングが気まぐれにつけた呼び名だ。そう本人から聞いて、彼は自分をからかっているのだと悟った。
忘れてしまえと言いながら、記憶を揺さぶる名をつける。
「……ああ、見えない。天使の保護施設は軍事自体には関係ない」
「白い壁を見つめているだけ……僕はそれが嫌で、外に出たんです」
争いのない壁の内。あるのは花々と同族だけ。
断罪の天使から外の話を聞いた。
外の世界は我々天使を犠牲にして成り立っている、と。
「外に出て分かった。天使は犠牲じゃなかった……」
こちらを見ようとしない銀髪の青年を見つめる。
「犠牲になっているのは、疑い続けているあなたです」
天使は間違っていると思いながらも、同じように手を汚す自分を信じることができない。
正しい答えを導き出せないでいる。
「僕はあなたを救いたい」
のろのろとジィルバが顔を上げた。引きつった笑みを向けてくる。
「……救って欲しいなんて言ってない」
愕然と、リヒトは青年の顔を見上げた。
ジィルバは顔を背けるとベルトを締め、制服を羽織った。乱れた髪を手櫛で整える。
「一度基地による。一緒に行くか?」
尋ねてくる声は、もはや平静を取り戻しており、冷たい。
リヒトは首を振った。床の上で拳を握る。
「嫌です」
「……ここで何をするんだ?」
準備を終えたジィルバが自分を見下ろしているのが気配で分かる。ため息を尽きたげな、きっとそんな表情。
「最初に引き止めたのはあなたでしょう」
何のために引き止めたのだろう。
それが分かりかけそうだったのに、一気に崩れてしまった。崩されてしまった。
「そうだな」
感情のない声。
拒絶されてしまったのだと改めて悟り、リヒトは再び涙をこぼした。
「ごめんなさい」
「……なぜ謝る」
「僕はあなたを裏切ったんだ……あなたの期待に応えられなかった」
助けられた自分は、助けを求められていた。
青年が何かを言いかけて、しかし口を噤んだのが気配で知れた。
そしてそのまま振り返ると、部屋を出て行く。遠ざかる足音を聞きながら、リヒトは唇を噛んだ。