――右腕が、疼く。
汗の浮いた額を夜風が冷やりと撫でる。うっすらと瞼を持ち上げた少年は袖ごと腕を強く握り、空を見上げた。双子月が晧々と輝いている。
(朝は……まだか)
ノムの大木の太い根に頭を乗せて眠っていたのだが、腕の痛みとそれによる夢のおかげで目が覚めてしまったのだった。毛布に包(くる)まった少年はのそのそと身体の向きを変え、睫を伏せた。
朝日が山の稜線から完全に顔を出しきる頃、少年も毛布から這い出て、伸びをしていた。
淡い、暖灰色の髪が日の光に透けるように輝いている。三ヶ月ほど前に短く切り揃えなおした髪は、今は耳とうなじを覆うくらいに伸びていた。旅をしているらしく、膝の擦り切れたジーンズ生地のズボンをはき、白いシャツはだいぶくたびれている。
辺りの木々はまもなくやってくる初夏に期待と若芽を膨らまし、日の光を眩しく弾いている。少年は口元に笑みを浮かべ、靴を脱ぎ、毛布のそばに置くと、素足で小川まで駆け下りていった。
少年は川岸にひざと両手をつくと、頭から水に顔を突っ込んだ。小川の冷たい水が寝起きの思考を鮮明にしていく。そこへ響く甲高い声。
「フレイム!」
背後から名前を呼ばれて、顔を上げる。目の前の小川のような澄んだ輝きを放つ薄紫の双眸を細め、「フレイム」と呼ばれた少年は微笑んだ。
「おはよう、グィン。早いね」
グィンと呼ばれた者は、宙に浮いていた。人ではないのだ。緑の精霊で、その体はフレイムの手の平より少し大きいくらいか。
グィンは手を腰に当て、文字通りフレイムの目の前で、ぷりぷりと怒る。
「『おはよう』じゃないよ! 目を覚ましたら、いないんだもん。おいてかないでよ」
「ごめん、ごめん。あんまり気持ちよさげに眠ってたからさ」
フレイムはさほど悪びれないように謝った。グィンは腰よりも長い明るい緑の髪を揺らし、人差し指で主人を指した。
「しかも、見つけたら入水自殺の真っ最中だなんて! フレイムは僕をショック死させるつもり?」
フレイムは濡れた前髪を掻きあげながら、ぽつりと呟いた。
「――顔を洗ってたつもりなんだけど……」
少年はしかめっ面の妖精を頭に乗せ、ノムの木の下まで戻ると、毛布を丁寧にたたみ、白い布製のリュックにしまった。替わりに最後の一切れとなったパンを取り出すと、口に放り込む。
「……さて、そろそろ食糧、調達しなくちゃ」
ここは山の中腹やや下に位置する樹海で、針葉樹も見かけるが、大半はノムという広葉樹で構成されている。穏やかな気候で、魔獣も少ない地域である。
だが、食糧を手に入れるためには、山の樹海を出て、下の町に行かなければならない。
フレイムはできるだけ人目に触れないように旅を続けている。人付き合いは嫌いではないし、むしろ人懐こい面もある少年だった。――二年ほど前、あの事件が起きるまでは。
「食糧調達って事は、町に降りるの?」
耳元で、ささやかれた高い声にフレイムははっと顔を向けた。
「な、なにさ?」
小さな妖精が主人の様子に面食らって、フレイムの耳元から一歩さがる。フレイムは静かに視線を落とした。
「ごめん。考え事してたから……、ビックリして……」
血の気の抜けた白い横顔を見て、グィンは心配そうにまたフレイムに近づき、その肩に下りた。
「夢見でも悪かったの? 夢ってのはその日一日の気分を変えちゃうから、いやなものなら忘れてしまいなよ」
意外と的を射た響きに、フレイムは目元を緩めた。
「そうだ……ね。夢なんかにいちいち気分左右されてちゃ、人としてやっていけないね。……ありがとう、グィン」
少年のうっとりするような笑みにグィンはさっと頬を染め、そして自身も満面の笑みを浮かべた。
「ふふ、僕っていい事言うよね!」
そして、二人は山を下りる準備をした。