トゥワル ストレイア 5

 自分は暗闇に立っていた。
 夜の闇とは違う事はすぐにわかった。いっこうに目が慣れないからだ。
 ただ、誰かが自分を見ているような気がする。
 一人ではない、大勢が。
 好奇と、猜疑と、軽蔑の眼差しで。
 少年はぞっとする思いで自分を抱きしめた。
「……父さん……」
 少年は暗黒の中をとぼとぼと歩き続けた。
「忘れてはいけ……い……。……を………ろ……」
 遠くから低く優しい声が響く。
 それは壁を一枚隔てたようにくぐもって、いつも上手く聞き取れない。
 父親の声であることは間違いないのに。
「これが……の……葉。忘れ……ない」
「父さん! なんて言ってるの!? 聞こえないよ!!」
 少年は虚空に向かって叫んだ。返事はない。
「……父さん」
 その時、肩を落とした少年を一筋の光りが照らした。
 緑に輝く美しい光。
 少年は驚いて顔を上げた。
「シヤンは救いを必要とする者にはいつも開かれているの」
 この闇の中で誰かの声が、こんなにもはっきりと響いたのは初めてだった。
 まぶしそうに目を細めてみる。
 そこには光り輝く木々が豊かに茂っていた。

 朝からシグマはサッシャに起こされた。
 いつもはのんびりと目覚めを迎えるシグマには少々つらい出来事でもあったが、それ以上にサッシャは真剣な顔をしていた。
「今日は一日外に出ないで」
 厳しい口調でそう告げる。
「どうして?」
 外は明るく晴れわたっているし、子供たちとは今日も遊ぶ約束をしたのに。
「来るのよ。デュラウサが」
「なんだって!?」
 ぼんやりとしていたシグマの脳は巫女のその一言で殴り起こされた。
 デュラウサは南の砂漠地帯を闊歩(かっぽ)する大型の魔物で、気性は荒く獰猛だ。その体は鋼よりも硬く、血塗れたようにどす黒い。姿は龍にも似ているが、神々しいそれとは似ても似つかぬ醜悪な魔力を帯びている。
 それだけにデュラウサを倒した勇者は、英雄となれるのだ。しかしその夢を果たせずに死す者は非常に多い。名高い勇者もうかつには手を出さない化け物である。
「何で……、こんな時期に?」
 デュラウサは夏にだけ活動するゼツの魔物だ。
 今はまだ春。デュラウサが砂漠から出るには、早すぎる。
「分からないわ。ただこの地は砂漠に近いから、十年に一度はデュラウサが迷い込むの」
「……隠れてやり過ごせるのか?」
 シグマは上目遣いに少女を見上げた。サッシャは意志の強い目でシグマを見つめた。
「結界を張るわ。シャナラーの結界を。たとえデュラウサにも破らせはしない」
 耳を打つ声は力強く、安心できるものがあった。しかし続く言葉にシグマは違和感を覚えた。
「……あなたたちは隠れているだけでいいの」
「……俺たちは……? ……え、君は?」
 意志の強い巫女の目は、覚悟を決めた者の目に似ている。シグマは胸が騒ぐのを感じた。青年にサッシャは首を振った。
「――デュラウサと闘うわ」
「何を……っ!!」
 シグマは声を荒げて、サッシャの肩を掴んだ。
「正気か!? デュラウサだぞ?」
 青い瞳は揺るがない。
「結界を張る者は外にいなくてはいけないの」
 シグマは言葉を失った。
「気にしないで。この命、神に捧げられるのなら、――本望よ」
 サッシャは穏やかな声音でそう言った。
 しかし、シグマの瞳は険しい光を浮かべたままだ。
「……それじゃぁ、俺はどうなるんだ」
 自問のような呟き。
「だから、ここに残って……」
「そうじゃない!」
 シグマの声が巫女の言葉を遮る。
「……そうじゃない」
 苦いその声は、何かを決めかねているようだ。
「君を見殺しにして…、俺はどうするんだ」
 懇願の響きすら含んだ青年の問いに、サッシャは目を細めた。
「……また旅に戻るのよ。親御さんの自慢の息子になれるよう、修行の旅に」
 青年の夜の瞳が揺れる。
「……だめだ。だめだ」
 一度目は弱々しく、二度目ははっきりとシグマはそう言った。
「助けてくれた人を見殺しにして、何が自慢なんだ」
「シグマ……」
 さわさわと近くの木の葉が擦れあう音がする。
 青年の瞳に、美しい新緑の森が鮮明に蘇った。衰える事を知らない永久(とわ)の森。そこで。
 シグマは目の前のサッシャを見つめた。
 そこで、この美しい少女と出会ったのだ。
「……君を守りたい」
 言葉にして、胸の奥がすっと晴れ渡るのが分かった。
「シグマ、でも相手はデュラウサで……」
 サッシャが心配そうに眉を寄せて青年の顔を見る。
 シグマはおもむろに立ち上がって、少女を見下ろした。
 そしてゆっくりと微笑んで見せる。
「君が好きだから」

「……え?」
 思わずサッシャは尋ね返した。
(――今、なんて? なんと言ったの? 聞き間違い?)
「好きだから――。そう言ったんだ」
 シグマはいくらか照れくさそうに肩をすくめて見せた。
「うそよ」
 少女は呆然と呟いた。
 シグマがむっと眉を寄せる。
「こんな事態で嘘をついてどうするのさ? 何度も言わせないでくれよ」
 青年は息を吸い込んだ。
「君が好きなんだ。たとえ君が夫に選んだのが神だとしてもね」
 それだけ告げると、シグマは踵(きびす)を返して部屋から出ていった。
 一人残されて、サッシャはただ黙っていた。
 ――好き?
 私を? シグマが?
 黒髪の青年を泉で見つけたときの事が思い出される。
 それはサッシャにとって、奇跡とも言うべきものであった。
 語り継がれてきた話と同じように、そこに青年が倒れていたのだ。まるで、夢のようだった。
「でも、私は……」
 シグマは少女の知るどんな男性より、綺麗だった。
 銀色の剣を腰に帯び、すらりと伸びた長身の青年。優しい笑み。
 頬が熱くなるのを感じて、サッシャは手の平で覆った。
 君が好きなんだ。
 そう言った青年の声が耳についてはなれない。胸を焦がしてやまない。
「シグマ……」