翠の証 16

「フレイム?」
 階段の下から、ザックが呼びかける。フレイムは慌てて階段を駆け下りた。
「何やってたんだ?」
「うん、ちょっと……」
 フレイムはザックを見上げ、ためらいがちにうつむいた。
「……ねぇ、ザックは好きな人いるの?」
 思いがけない質問に、ザックは目を見開いた。こめかみに手をやりながら、柱にもたれかかる。
「んなこと、聞いてどうするんだ?」
「え、いや……」
 何か良い理由はないだろうか。フレイムは視線を泳がせた。
「うん、……だって、ザックは俺の好きな人、知ってるのにさ……」
 思いつきで答え、フレイムは顔を上げた。ザックは眉間に皺を寄せて、自分を見下ろしていた。フレイムは再びうつむいた。
「おまえがそんなことを気にするとは、思っていなかったが……」
 青年の声音には、苦いものが混じっている。
「……いないと言えば、嘘になるな」
 フレイムは弾かれるように顔を上げた。その瞳に驚愕の色が濃く浮かんでいる事に、ザックはわずかにたじろいだ。
「……これ以上は、言いたくない」
 そう言いながら、ザックは背を向けてダイニングルームへ歩いていった。フレイムはその後ろ姿を、木偶の坊のように突っ立て見つめた。

 ほとんど快復したと言ってもいいザックは、この日の朝食は完食した。
「食べれるって事は、それだけで贅沢だよな」
 しみじみと呟きながら、ザックはテーブルの上で手を組んだ。シギルが食器を片付けながらうなずく。
「だから、食事の前の祈りは欠かしちゃならんのさ。日の神様にも、大地の神様にも、すべての豊穣の神様に感謝しなくちゃならない」
 食物だけに言えることではない。風も、水も、火も、何もかもがこの世界にはなくてはならないものである。神の力を行使する魔術師だけが、神の恩恵に与っているわけではないのだ。
 フレイムは神腕の事を考えた。神腕も神に感謝しながら使えば、少しはましになるだろうか。ふと、昨夜風呂で考えていたことを思い出した。
「ねぇ、ザック。誰か、魔術に詳しい人いないかな?」
 突拍子もないフレイムの問いにザックは首を捻った。
「お前の頭の中はおかしな風に回路が繋がってるんだな」
 フレイムは言われた意味が分からずきょとんとした。ザックはその様子に笑みを浮かべて、肩をすくめた。
「闇音もグィンも、お前だって俺より詳しいんだ。それ以上に詳しい奴なんて、知らないな。しかし今更、魔術の詳しい奴をどうしようっていうんだ?」
「うん、これをうまく使いこなせるように、なりたいかな……って」
 フレイムは右腕を上げて見せた。ザックは頬杖をついて、神腕を見つめた。
「今のままでも、不便はないだろ。あんまり使わないし」
「今のままじゃだめな状況が、これから先ありそうなんだよ」
 フレイムは苦笑した。ザックが眉を寄せる。
「俺の事なんか気にしなくてもいいんだぞ。体調が悪くない限り、自分の身を守る事はできるつもりだ。闇音もいるしな」
 フレイムは首を振った。
「確かにザックは剣じゃ、もう簡単に負けたりはしないだろうけど。でもやっぱり、魔術師が相手だと圧倒的に不利だよ」
 ザックは窓の方に目をそらした。外では露が弾いた陽光が、木々の緑を輝かせている。
「……飛竜か」
 フレイムは小さくうなずいた。
「森で会った時は、結界の中だったから分からなかった。ザックを助けなきゃって必死だったし…」
 ザックの整った横顔を見つめて続ける。
「でも昨日、解熱魔術を使ったとき飛竜は呪文を……、唱えなかったんだ」
 ザックはゆっくりとフレイムの方に目を戻した。フレイムのガラス玉の瞳には、わずかに畏怖の色がある。
「呪文を唱えないのって……、え?」
 ザックはフレイムの言葉がよく分からず、首を捻った。ただ、わずかな不安が次第に大きくなっていくのは分かる。フレイムはゆっくりと説明を始めた。
「『神腕』とは限らない。神の領域から直接引き出す魔力『神通力』は、腕にだけ宿るとは限らないんだ。……例えば目だったり……」
 不気味な血の双眸が頭をよぎる。魔力の光は同じ色をしていた。
「あと神通力じゃなくても、魔力が非常に強ければ、呪文は要らないんだ」
 ザックは慣れない魔術の話に眉を寄せた。
「……つまり、あいつは強い魔術師だって事なんだな」
 フレイムの話を要点だけに絞ってみる。フレイムはうなずいた。
「やっと、ガンズを倒したと思ったら、今度は変態魔術師か……。たまんねぇな」
 ザックは憮然と吐き捨て、深くため息をついた。しかし、事をフレイムほど深刻に受け取っているようには見えない。
「それでお前はあいつに対抗すべく、その腕を使いこなしたい訳だ」
「うん」
 ザックは天井を仰いだ。上の階には闇音がいる。
「まあ、この中で一番魔術に詳しいのは、闇音だろ」
 フレイムも同じように、天井を見上げた。
「そうだろうね……」
(でも闇音さんは精霊だ。人間の魔術とは根本的に違う……)
 フレイムは視線を落として自分のコップの水を見つめた。
 ――今、お前に必要な事は休息だ。
 そう言ってコップを指し出してきた男。渋い緑の髪をした魔術師。
 頼るなら彼しかいない。フレイムは決して顔を上げた。
「ザック、次に行きたいところがあるんだけど……」
「ん? どこだ?」
 会話が途絶えてぼーっとしていたらしいザックは目を瞬いて顔を上げた。
「リルコ州」
 ザックはえーっとと顎を掻いた。コップの水を指に取り、テーブルに地図を描く。フレイムはその南端を指で示した。
「南の砂漠に隣接する州だよ」
「……でっかい森があるところだな?」
 ザックの問いにフレイムは頷いてみせた。
「会いたい人がいるんだ」
 翠の混じった黒い瞳がじっとこちらを見つめる。険しい瞳だった。
「……魔術師だな。……そいつを頼るのか?」
 慎重に尋ねてくる。彼らは今やどちらも賞金首だ。気楽に構えている方がおかしいだろう。
「ネフェイル・フォライゾ……。俺を助けてくれた人だよ」
 ふむ、と頷いて――、しかしザックは眉を寄せてフレイムに見なおった。水で描かれた地図。広大な土地を指先で叩いてみせる。
「リルコの、どこだ?」
 指摘にフレイムは苦笑しか出来なかった。ザックは更に顔をしかめた。
「お前もずいぶん計画性のない奴だな」
「仕方ないよ。また頼る事になるなんて思ってもいなかったんだから」
 ザックは長いため息をついた。諦めた顔で少年を見やる。
「いいよ。好きにしな」