夏の日は長い。いつまでも明るくて、うっかり油断してしまう。
昇降口で真っ暗になってしまった外を眺めて、優はため息を零した。空の月は丸く、銀色で、近頃暑くなってきた空を涼しげに見せている。
「沖様、そろそろかな……」
「あ、優!」
響いた声は背後からで、優はびくっと肩を跳ねさせた。胸元を押さえながら振り返る。
「……しーな、驚かさないでよ」
後ろに立っていたのは、クラスメイトの橋田椎奈(はしだしいな)だった。髪を肩口で切りそろえ、切れ長の瞳は黒目がちの、日本人形のような少女である。
「ごめん、ごめん。噂の幽霊だと思った?」
椎奈は笑って謝る。優はこぶしを掲げて見せた。
「おかげでいつもの倍は驚いちゃったじゃん」
本当は純粋に驚いただけだ。相手が幽霊なら声をかけられる前に気づくのが、優の持つ特性である。だが、それをいちいち説明するのは面倒だし、冗談だと受け取られてしまうことが多い。
「優は何でこんな時間まで残ってたの?」
「んーと、部活の用事で……。しーなは?」
「私は委員会。もうすぐ生徒総会が近いでしょ。プリント作りよ」
と言って、椎奈はあっと声を上げた。
「教室に筆箱置いてきちゃった……」
椎奈は顔を歪ませる。幽霊の噂がある今、教室まで戻るというのは、なかなか勇気がいる。
「ついていこうか?」
優は足元に置いていた鞄を抱え上げながら、そう言った。椎奈は顔の前で手を打ち合わせる。
「恩に着るー」
「なんの、なんの」
二人は三階にある自分たちの教室を目指して、歩き出した。
真っ黒の窓とそれに映る蛍光灯。シューズを履いているので、そう硬質でない足音が響く。優は視線を巡らせた。
「うーん、まあ、不気味と言えば不気味かなー」
さして怖くもなさそうに呟く友人に、椎奈は眉を寄せた。
「相変わらずねー。ちょっとは怖がったほうが、女の子らしいんじゃない?」
「あはは、柄じゃないなー」
優はふんぞり返って笑った。
柄じゃないとか、そんなことより、彼女にはもっと大事なことがあった。
幽霊を怖がるということは、その線上にいる沖やユキを怖がることに繋がるのだ。それを思えばこそ、優は幽霊なぞ怖くないと自分に言い聞かせるのだった。
怖い感じがしない、というのも事実である。
大鬼――自分に取り憑いて生気を食っていたのだと、高嶺神社の宮司に聞いた――は、怖かった。あの時感じた、あの恐怖。それがここにはない。
「幽霊なんてのはさ、大半は人間の恐怖心が正体だよね」
そう言ってみると、椎奈は眉を下げて笑った。
「『幽霊の正体見たり、枯れ尾花』? そうね、そんなものかもね」
でも、と続ける。
「正体がそんなものでも、恐怖したのは本当だよね。それが『幽霊』じゃないかな」
「むー、哲学的ね」
唇を尖らせる優に、椎奈は呆れてみせる。
「そんな難しいことじゃないわよ。要するに、怖いものは怖いってこと」
そんな会話をするうちに教室に到着した。
机の上に放置してあった筆箱を鞄に入れ、椎奈はほっと息をついた。
「よし、じゃあ、今度こそ帰ろう」
ぐっと手を握ってみせる友人を見ていた優はぴくっと顔を上げた。視線の先には何もない。その猫のような動きに椎奈は不穏なものを感じた。
「優?」
不安になって声を掛けると、優ははっとして椎奈を見た。
「あ、ごめん。唐突にさ、ビデオの録画予約し忘れてたこと思い出しちゃってさ」
「もー、驚かさないでよ」
「ごめん、ごめん」
謝って、教室を出ながら、優は双眸を細めた。
(何かいる……)
気配がある。だが、それは人のものでない。
(沖様……ううん、違う)
沖ではない。だが、怖いとも感じない。
(全然怖くないわけじゃない。変な感じ)
怖いものがあるような気がするのに、気のせいではないかと思ってしまう。それほどに弱い感覚だ。
廊下の先――。
優は思わず息を呑んだ。
何か、立っている。
「――っ!」
声を上げたのは椎奈だった。
悲鳴を上げて、優にしがみ付く。
「しーな、落ち着いて」
「っ無理!」
即答する友人に優は思わず笑みを浮かべた。
「走って、玄関まで」
「な、何? 一人で?」
震える声で問うてくる椎奈に片目を閉じて見せる。
「こういうときはダッシュよ」
「優は?」
「ああ、私は大丈夫。この手のことには慣れてるの」
ひらひらと手を振る。
「ごめんね。黙ってて。いわゆる『見える人』なんだ、私」
幽霊の噂を聞きながらいつも苦笑を浮かべていた友人を思い出し、椎奈は目を瞬いた。
「……本当? 大丈夫?」
「大丈夫」
しっかりと頷く。
「余力があるなら、高嶺神社のオ……宮司さんを呼んできて」
オキツネ様と言いかけて、優は言いなおした。椎奈は首を傾げる。
「宮司さん?」
「そ、本物の霊能力者。優しーい人だから、泣きついたら絶対来てくれるわよ」
含み笑いでそう告げる友人に、椎奈も顔を綻ばせた。
「そういう人なのね」
「そういう人なの」
椎奈は意を決した様子で、頷いた。
「分かったわ」
鞄の取っ手をぎゅっと握る。それから、笑って見せた。精一杯の笑みなのだろう。少し震えていた。
「廊下は走っちゃいけません、って習ったんだけど」
優も笑った。
「私が許可する」
何の権限もないのにそう言って、優は椎奈の肩を叩いた。そのまま彼女は駆け出す。やがて足音は階段を下りる音に変わり、遠のいて消えた。
「さて、と」
優はない袖を腕まくりする仕草をした。
(うん、怖くないもんね。沖様みたいな妖怪かな?)