沖と黒刀が裏手側から高嶺神社まで登ってくると、出口に玖郎とユキが立っていた。
「沖様」
ユキはお帰りなさいと言って、駆け寄ってくる。
だが、玖郎はじっとこちらを見ているだけだ。睨んでいるようにも見える。
「えっと……あの」
玖郎は言い淀む沖にすたすたと歩み寄り、しかし、くるりと方向転換をして黒刀の方を見た。
「どうした?」
「え、……ああ、貧血だよ」
松壱の事を聞いているのだと悟り、黒刀が答える。
すると玖郎は手を掲げ、ふわりと松壱の頭を撫でた。血の気を失い真っ白だった肌が淡く赤みを帯びる。
「……すごい」
呟いたのはユキだった。
沖と黒刀がしなかったとおり、見えない体の内側、極細の管の中を流れるものを増やすのはそう容易なことではないのだ。
茶色い長い睫毛を見ながら、玖郎がぽつりと呟く。
「これが今一番大切なもの?」
息を呑む沖のほうを振り返り、青い双眸がぴたりと見据える。
「――うん」
沖はしっかりと頷いた。
玖郎の眼差しが柔らかくなるのを感じて、安堵しながら続ける。
「ちょっとひねくれてるけど、優しい子だよ」
玖郎は目を伏せた。
「そうか……」
声はどこか寂しげで、沖は慌てた。
「あ、でも、俺……玄狐のことは……」
「ああ、忘れられるわけないよ」
沖の言葉を遮って、玖郎は笑った。
「運がなかったんだよな。玄狐はさ」
靴の裏で地面を擦る。
こんな簡単な動作と同じようなあっけなさで玄狐は滅んだのだ。
滅ぼしたのは久遠(くおん)――異界とこの世の間を逍遥(しょうよう)するように漂い続ける破滅の生き物だ。存在するだけで次元を歪ませる。周りのすべてを巻き込み、嵐のように引き裂き、闇に呑み込んでいく。
ただ、久遠に意志はない。玄狐は運がなかったのだと、玖郎は心の底からそう思っていた。
「まあ、二人も生き残った事に関しては上出来だと思うけどね」
そう言って、玖郎は顔を上げた。
「仲良くしようよ」
片手を沖に差し出す。
沖はそれを握り返そうとしたが、黒刀に阻まれてしまった。沖より先に口を開く。
「それだけか?」
「どういう意味だい?」
玖郎はわざとらしく片眉を上げて問い返した。紫黒の双眸が倍を生きる玄狐を射る。
「言わなくても分かっているだろう」
その眼光に怯まず、真っ直ぐに受け止め、玖郎は頷いた。山を守る彼の役割は分かっている。
「それだけだ」
青空を仰ぐ。
「僕はもう頑なに何かを欲しがるほど幼くはない」
そして、空と同じ色の瞳を持つ同胞を見る。
「ただ十夜と迦葉の子を見れただけで、満足だよ」
「玖郎……」
沖は頭上に太陽を戴く玖郎を見つめた。
この玄狐は沖も黒刀も軽く超越する力の持ち主であるはずだ。彼が望めば、それは彼のものになるだろう。
「……俺は子供だから……欲しいものがあるんだけど」
「お前が望むなら何なりと」
沖の言葉に玖郎は嬉しそうに頷く。
「これからは俺のことは沖と呼んで欲しい」
沖は自分の胸に手を当てて続けた。
「『氷輪』は父と母の墓前に添えたんだ。玖郎は玄狐だから最初は氷輪と名乗ったけど……。やっぱり俺は『沖』なんだ」
玖郎は視線を下げた。
(一族の名を捨て、真名も人間に委ね……それがお前の生き方なのか……)
拒む気はない。
消えたものにこだわって何になる。新しい希望があるならそちらを選んでもいいだろう。
「いいとも、沖」
* * *
庭に緑の木陰が降り注ぐ時間。雲の影が白い寝顔を撫でていく。
窓際のベッド、陽光を半分しか遮断しないカーテンは風がないため揺れていない。
(……全然起きないや。眩しくないのかな)
『長時間妖気に当てられたからな。自浄作用が働いている間は起きないだろう』
そう言ったのは黒刀だった。
「ごめんね……」
一人で呟いて、沖は明るい色の前髪を撫でた。
かつて松壱はすぐに熱を出すような子供だった。少しのことで眠れなくなることもあった。だが、ここ数年目立って体調を崩したことはなく、この冬に久しぶりに寝込んだ姿を見たのだ。
単に体が弱かったからとかそんな理由ではない。怪我による熱も少なくはなかった。
生傷の絶えない小さな子供。力を持て余し、自らを傷つけ、また大事な人まで傷つけて、いつも泣いていた。
(泣かなくなったよなー。……まあ、男の子だし。ちょっとのことでオロオロするよりはいい、のかな……?)
松壱の年になって大幅な性格改善ができるとは沖も思ってはいない。
そして松壱は沖よりもずっと早く年を取っていくのだ。
(……最後まで守るから……)
それが約束だから。
大助と六花と高嶺たちとの約束。そして自分との、約束だ。