向かいの窓の中をめまぐるしく駆けていく風景を見ながら、沖はじっと動かずにいた。
ユキは自分の隣の窓から外を見ている。いつまでも飽きない様子だ。後ろの席にいる玖郎は頬杖をついて眠っていた。
(なんだろう……この感じ)
胸にわだかまりを感じる。落ち着かずに沖は薄手のトレーナーを手で撫でた。
(嫌な……予感?)
滅んだ里を見に行くからか。
沖は目を閉じた。
『ちょっと前のお前なら出掛けやしないだろうさ』
黒刀の低い声が耳に甦ってくる。彼もまた松壱をよく知る人物だ。
(出掛けやしないって、いつも出掛けてるのに……)
沖が神社を出て街をうろうろすることはよくあることだ。別に珍しいことではない。
なぜだか憎らしくも見える青い空を沖は睨んだ。
* * *
石段を降りながら、松壱は不意に視線を横にずらした。薄暗い木々の向こうに何かが見える気がした。
(なんだ?)
目を凝らすが上手く見えない。気配を掴もうにも松壱にはそれが出来なかった。
沖がいれば彼を呼んでそれで終わるのだが……。
(黒刀は呼べない。あいつは……本当は人間なんかが呼んでいい存在じゃないんだ……)
山の守護者――その力は風雷を自由にする。本来なら妖怪、魔性と呼ばれる類ではない。神性の――。
逡巡の後、松壱は石段を蹴って、森の中へ入っていった。
(破られた!)
黒刀は庭に降り立ち、空を、結界を見上げた。
(早すぎる)
妖怪の出入りが可能になったからと言って、神社に用のある妖怪など滅多にいはしないだろう。それがなぜこんなに早く現れるのか。
神域には、彼らに触れられるものは何もないのに。
(……いや、ある)
人間という器に納まった力の塊がある。
舌打ちをして、黒刀は羽ばたき宙に舞い上がった。
(高嶺が俺から離れるのを待ってたんだ)
上空から山全体を見下ろして、黒刀は松壱の気配を頼って滑空していった。
闇のように真っ黒い髪がふわりと揺れる。
そこにいたのは一人の男だった。薄墨色の隈取のある細長い目を更に細めて松壱を見つめる。
「お前か」
待っていたとでも言うような様子だ。
松壱は姿勢を低く構えた。
(鬼だ)
ただ獰猛なだけの大鬼とは違う。冷徹な眼差しが足を凍らせる。
「なるほど、噂に聞くとおりだ。……素晴らしい。そして」
独り言のように呟き、すっと手を上げる。それ以外の動作はなかったのに鬼がぐっと近づいた錯覚がした。
「っ!?」
見えない何かに首を掴まれ、そのまま凄まじい力で引き摺られる。バランスを崩して倒れるよりも先に、鬼の手が首を掴んでいた。
「――そして、宝の持ち腐れだ」
にいと口が大きく裂ける。
間近で見る鬼の顔は面を思わせた。それは人ではない人の形をしたもの、常人以上の力を持つもの。
「そのような力は人間が持つべきものではない。私に寄こせ」
軽い息苦しさを覚えながら、松壱は口元に笑みを刷いた。
「そこまで太っ腹にはなれないな」
「なに遠慮するな」
鬼のもう一方の手が首に触れ、そのまま下へと滑り、心臓の上で止まる。
「これを私にくれるだけでよい」
「冗談言うなよ――抜光!」
松壱は鬼の額に手の平を向け、霊力を迸らせた。
鬼が手を離す。同時にその胸を蹴り、松壱は地面に着地するとすぐさま間合いを開いた。
ぱっくりと開いた額から真っ赤な血が流れる。唇まで伝ってきたそれをぺろりと舐め、鬼はただの汗を拭うように額を拭いた。間もなく傷は癒え、消える。
「なるほど。無抵抗よりは面白いぞ」
瞠目する金の眼光が狩る者のそれに変わる。
松壱は指で印を組み、更に組み替え、体内の霊力を活性化させた。力の暴走を恐れるゆえに普段ならば絶対にしないことだが、そうも言っていられない状況であることは間違いない。
手の平で地面を叩き、地の脈を鬼へ向ける。
「爆魄!」
脈に沿って爆撃が正確に鬼を襲う。
「魄を砕く技か」
動揺のない静かな声が、背後から耳を撫でる。松壱が振り返ろうとした瞬間、熱い衝撃が背を走った。
「……っうあ!」
悲鳴を上げて松壱は地面に崩れ落ちた。目の前の土が赤く染まる。
(まずい……。背中をやられた)
ぐっと手を握る。力を込めるが上手く体が動かない。
その肩に鬼が手を置き、耳元で囁いた。
「動くな、『松壱』。死なせてしまっては使えなくなる」
名を支配する言霊。妖怪の真名には劣るが、似た効力を持つ技だ。体が凍る。
愕然とするブラウンの瞳を見下ろし、鬼は改めて口を開いた。
「霊力も技術も申し分ない。だが、集中力が足りない」
両の手の平で青年の顔を包み、優位の笑みを浮かべる。
「美しい人間よ。何に心を奪われている?」
答えは簡単だ。
だが、それを口にする気はない。口にしたところで何が変わるわけでもない。
松壱は黙ったまま鬼を見上げた。
「松壱」
応じない松壱を従わせようと、鬼が再びその名を口にした瞬間――
「発雷!」
山の気を震わす声が響き、天地を貫く紫電が鬼の背後を穿った。
言霊による金縛りが解ける。目を瞬く松壱を何者かが抱え上げ、ふわりと跳躍する。
大気が揺れる中、松壱は自分を助けた人物の顔を見上げ、その黒い衣を握り締めた。気づいて相手が微笑む。それを見て、朧な意識のままその名を呼んだ。
落雷の衝撃が空中に霧散し、視界が晴れると、鬼ははじめて不愉快そうに顔を歪めた。獲物を奪った男に牙を剥く。
「邪魔をする気か、鴉天狗!」
相手の怒気の滲んだ声に振り返り、黒刀は不敵な笑みを見せた。
「悪いな、こいつとこいつの先祖には借りがあるんだよ」