止まぬ雪

 視界が白で埋め尽くされる恐怖。こんな絶望を味わいながら自分は死ぬのか。
 ――それでもいいか。
 死んだという自覚を持てるなら。肉体が腐り落ちてなお彷徨うのは、御免だ。
 もう疲れたから。もうこれ以上は動きたくない。
 意識が、遠のく。

「お兄さん、死んでる?」

「今から、死ぬの?」

 意識が。
 辿り着いたところはぼんやりとした光がひとつだけ点る闇だった。奈落、か。
(死んだのか?)
 結局、死んだのかどうかの自覚はないらしい。
 判然としないまま、おそろしく重たい瞼を持ち上げる。
 同時にぼんやりしていた光源が強くなる。それは柔らかい光を頭に掲げた蝋燭だった。そう、単なる蝋燭。おおよそ地獄とかそう言った類のものにはふさわしくない。
(ということは、生きてる、……のか?)
 けれど重い疲労が全身にのしかかり、身動きがままならない。何とか体をよじって、片腕を持ち上げる。
 当たり前だが、腕はあった。毎日馬鹿正直に木刀を振り続けたおかげで、剣だこのできた硬い手だ。
(生きてる)
 実感が込み上げてくる。涙まで流してしまうかと思ったが、そうでもなかった。ただ喜びが強すぎて、笑みが自嘲っぽく引き攣る。
 腕をどっと投げ出す、と――
「った!」
 短い声が上がった。
 心臓が跳ね上がるほど驚いて声のするほうに顔を向けると、声の主は眩暈がするほど近くにいた。その事にさらに驚き、泥のような体に鞭打って起き上がる。
 それは男の体にその柔らかい肢体をぴったりとそわせた少女だった。
「い……ったぁーい。命の恩人に腕をぶつけるなんて、どういう礼儀知らずなのかしら」
 引きずって来るの大変だったのにと言いながら少女が起き上がる。二つに括った長い黒髪が美しく、目を惹いた。
「き、き、き?」
「君は?」
 呂律の回らない男の言葉を少女が代弁する。
「私はセツ。――飛び起きるのは勝手だけどね、あなた熱があるのよ?」
「え……」
 理解するより先に、目が回った。

 外は吹雪だった。
「おまえはここで暮らしてるのか? ひとりで?」
 質素な山小屋。少女が一人で暮らしていけるようには見えなかった。
「まぁね。去年までは爺さまがいたんだけど」
「……そうか……」
 悪い事を聞いただろうか。うつむいて味噌汁をすする。
 セツが笑んだのが気配で分かった。
 彼女は美しい娘だった。冗談のように大きな黒檀の瞳。それを縁取る長い睫毛。瑞々しい唇からこぼれる笑い声は鈴の音のように澄んでいる。そして長く、艶やかな黒髪。地味で着古した綿入れは彼女の美しさを引き立てるものでしかない。
(もう少し成長すれば、すごい別嬪になるんだろうな…)
 けれど、そのセツを見ることはない。吹雪が止めば、自分は山を降りるのだから。

「――雪、止まないわね」
 独り言のようにも聞こえる声に顔を上げる。セツはがたがたと揺れる板戸を見ていた。その口からため息が漏れる。
「あなた、帰れないわね」
「あぁ、……まいったな」
 そう言って頭を掻くと、少女は側に腰を下ろしてきた。悪戯っぽく口元に笑みを浮かべる。
「ふもとに恋人でも待たせてるんじゃない?」
「まさか、悪友どもさ。もうさっさと自分たちの家に帰ってるかもしれないな」
 肩をすくめて答える。
 友人二人と山に入ったのだが、自分だけが道に迷ってしまった。ぼおっと空を見上げながら歩いていたのがいけなかったらしい。
 気づくと、セツはじっとこちらを見ていた。その大きな澄んだ瞳で。
「本当?」
「あ、あぁ」
 少年のように胸が高鳴る。自分を莫迦かと疑った。こんな少女相手に。こんな――。
 こんな、で片付けてしまうにはセツは美しすぎた。
 物思いを打ち消す声が響く。男ははっとした。
「じゃぁ、ふもとじゃなくて自分の村に恋人がいるの?」
 こんなむさくるしい男をつかまえて、恋人がいると思うのか。男は嘆息した。
「……いないよ。汗臭い男は嫌いだと、この前振られた」
 むっつりと呟くと、セツが笑った。
「なぁんだ。あなた格好いいから、てっきり恋人いるんだと思ってたわ。なんだ、振られたの」
 笑われた事には腹が立ったが、それより気になる単語があった。
「……格好いい?」
 聞き返すと、彼女はあっさり頷いた。
「だって背も高いし……。それに手が石みたいに硬かったもの。いっぱい頑張ったんでしょう?」
 汗臭いのと、硬い手が嫌いだと言われた。そんなごつごつした手で触るなと。
 男は自分の手を見下ろして、それから目を伏せた。
(雪が止んだら……、帰るんだ。……止んだら)

 雪が止まない。まるで嘲笑っているかのように、板戸が風に揺れる。
「なぜ、止まないんだ?」
 男はいまだ外に出ていない。もう五日は経つのに。
「ゆっくり休んでいけってことなんじゃない?」
 二人分の茶碗を洗いながら、振り返らずにセツが答える。
「まぁ、いいけど……さ」
 その細い後ろ姿を見ながら、男は呟いた。
 既に自覚は出来ていた。
 ――俺はセツが好きだ。
 明るい笑顔と、歯に衣着せぬ物言い。
 恥じらいを知らないと言えばそれまでだが、それはきっと近いうちに覚えるだろう。彼女はまだ若い。
 彼女が美しく育っていくのが、自分の側であったらいいのに。
 いつの間にか、帰りたいではなく、まだ側にいられると考えるようになっていた。

 だが、不安が胸の奥にあった。
 止まない雪。美しい娘。
 なにか気味が悪くはないか。

 それでも吹雪は日ごとに弱まっていった。
 同時にセツが口少なくなっていく。
 奇妙な、符合。
「俺って実は死んでるのかな?」
 そう言いながら自分を見下ろす男を、セツは怪訝そうに見つめた。
「ほらさ、よく雪女が雪山で遭難した男の魂をとっていくとかどうとか言うじゃないか」
 セツが眉を寄せる。
「私が雪女だって言うの?」
「太らせて食べる気なんだろう?」
 片眉を器用に上げて告げると、少女は笑った。久し振りに見る気がする眩しい笑顔。
「いやぁだ、人間の男なんてまずそうだわ」
 口元を着物の袖で覆っていかにも上品そうな仕草をしてみせる。
「そんな風に笑って、じいさんも食っちまったのか?」
「だったら、どうするの?」
 首を傾げて問われる。調子に乗って言った言葉だったので切り返しを考えていなかった。
「……命の恩人になら、食べられても、……いいかな」
 セツになら。
 少女はきょとんとして、それから笑った。
 他愛もない時間はまるで雪のように想いを降り積もらせた。それは決して解けない雪だ。
 セツに殺されるなら、あの時見捨てられていたのと大差ない。
 そう思うと、本当にどうでもよくなってきた。雪が止まない事など。
 むしろ、止むな、そう思う自分がいた。

 朝だ。まだ雪が降っている。
 いつものようにそんな事を考えながら、目を覚ます。
 が、その日の朝はしんと静かだった。静謐な空気。
 こんな朝は知っている。
「雪が、止んだ…!?」
 男は声を上げて飛び起きた。隣りを見下ろすと、セツの布団は既にたたまれており、誰もいなかった。
(嘘だ!!)
 嘘だ。そう自分に言い聞かせながら、転がるようにして戸口まで駆けていく。
 食べられていない。別れの挨拶を交わしていない。

 好きだ、と告げていない。

 勢いよく開け放った板戸の向こう。
 銀世界。一面の雪景色だ。
 朝日を弾いて目も眩むほどに輝いている。木も草も、山全てに白粉をはたいたように白い。そして一点の曇りもない青い空が広がっていた。

 ただセツだけがいない。

「……なんで」
 それは予感していた事だった。雪が止めば終わりだ、と。
 それでも雪は止まなかった。まるで二人のために降り続けているように。
 否、自分が勝手にそう思い込んでいたのだ。
 いつまでも一緒にいられるのだと。セツが自分の首を掻き切って血肉を屠(ほふ)るまで。
(雪が降っている間だけの……?)
 夢だったのか。
 地面に膝をつき、冷たい雪に手を突っ込む。
 指の先から凍えていき、その痛みは嫌でも自分の肉体に命があることを伝えてくる。
「セツ……」
「何? そんなところで何をしてるの」
「え……」
 うつむいたまま、間抜けな声が口から出る。
 顔は、上げれなかった。
「せっかく良くなったのに、また熱でも出したらどうするのよ。私の看病を無駄にするつもり?」
「あ、……いや」
 うつむいた頭に少女の影が降っている。それが分かって、男は声を絞った。
「どこに、行ってたんだ?」
「どこって」
 ちゃり、と鍔鳴りがする。
「あなたの刀。助ける時においてきちゃったから……。吹雪いて取りに戻れなくなってたし」
 そこまで言って彼女はその刀を差し出した。いまだにうつむいている男に。
「大事な刀なんでしょう? 頑張り屋のお兄さん」
 刀を持つ手は赤くなっていた。雪の中から掘り出してきたのだろう。
 何もかまわず、男は少女を抱きしめた。
 ここに、いる。
 セツは雪とともに消えてしまう儚い魔物ではなかった。
 自分の甚だしい勘違いに、意外と夢見がちな莫迦な男だと笑いたくもなった。だが、夢を見るほどに恋したのだ――笑えるはずがない。
「な、なに?」
 刀を抱えたまま、セツはうろたえた。男の顔は見えない。
 ただ、男の力は強かった。本当に自分が看病したのがこんな男だったのかと驚かされるほどに。そしてその強さに甘い眩暈を覚える。
 そんな彼女の耳に力強く響く声があった。
「君が、好きだ」
 セツは目を見開いた。
「本当に好きなんだ」
 男の声は力はこもっていても、震えていた。
 セツは手を伸ばして男の背にまわした。大きな体には上手く抱きつけなかったけれど。
「私もよ」

「雪が止まなければいいのにって、ずっと思ってた」

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